コラム「伸顕が斬る!」
逆転の発想で生き残る   ―100%錫の鋳造技術で確立した能作ブランド― Part 1
2012年3月30日 金曜日
1.曲がる器
松屋銀座内ショップ
松屋銀座内ショップ
 使い勝手や提供する料理に合わせて形を変えられる金属の器がある。使用する者の好みに応じて自在に変化することができるのは、限りなく100%近い錫の鋳物だからである。
 茶器、酒器、食器、菓子器や花瓶など通常見かける錫製品は、90%以上の錫にアンチモン、銅などを加えた合金(ピューターと呼ばれる)で作られている。合金にして硬度を上げることで、加工し易くするためである。以前は鉛が含有されていた。株式会社能作の代表取締役である能作克治は、高岡市工業デザインセンターと鉛レスの共同研究を行っていた。錫には酸化や腐食に強く、抗菌作用や熱伝導率が高いといった利点があるが、100%錫といえる素材は柔らかすぎて、加工が難しく、誰も手を出そうとしていなかった。ようやくそれなりの形の製品を作ることができたが、厚みを持たせないとすぐに曲がってしまう。薄手のものでは市場に出せないと悩んでいたところ、デザイナーの小泉誠氏から「曲がる食器で良いじゃないですか。」と言われ、これを売りにするという発想に切り替えることにした。
 金属なのに手で簡単に曲げられる。曲がるとき、錫の結晶の分子がこすれるTin Cryと呼ばれるピキピキという音がする。手になじむ愛おしい感触から、曲がる器の人気は次第に高まっていった。これを主力商品として、国内のギフトショーやインテリア・ライフスタイルといった展示会だけでなく、メゾン・エ・オブジェ/パリや上海など海外見本市にも出展し、反響を得た。常設店舗としても、日本橋三越と松屋銀座にショップを持つまでに至った。
 銅器の産地である高岡の伝統産業の分野は停滞している。同社でもこれだけでは売り上げが低下したはずである。しかし、10年前と比べて、総売り上げが約4倍に伸びたのは、この錫の器をはじめとする新製品の開発が功を奏したのだ。
曲がる杯
曲がる杯
風鈴
風鈴
2.高岡銅器
 しかし、大正5年に創業した同社の道のりは決して平坦なものではなかった。同社が位置する高岡市は、鋳物の伝統的産地として知られているが、他の産地と同様に地場産業の衰退傾向が顕著となっている。
 高岡は日本における銅器生産額の95%を占める。梵鐘や大仏といった大物から茶器、仏具などの小物、さらには様々な工芸品まで多岐にわたる製造を行っている。
 銅器鋳物の歴史は、加賀藩二代藩主であった前田利長が高岡城を築いた慶弔14年(1609年)に遡る。町の繁栄を図るため、越中砺波郡西部金屋村から7人の鋳物師(いもじ)を現在の高岡市金屋町に呼び寄せ、5000坪の土地を与えて工場を開かせたことに始まると言われている。当初は、鍋・釜といった鉄器を作っていたが、江戸中期になると生活や文化が向上したことで、仏具などが庶民の間でも求められるようになるなど唐金鋳物(銅金属合金)の需要が増加し、それに伴い銅器生産が盛んになった。1819年には銅器問屋が認められ、銅器生産の分業体制が始まった。
 明治に入ると、廃刀令により職を失った藩の細工師が高岡に来て、唐金鋳物に高度な彫金技術を施すようになると、芸術的な製品が生み出されるようになった。その後、動力の導入、新式溶解炉・送風機、真鍮研磨機などによる工場設備の近代化が起こり、技術革新が進展した。また、この頃から加工工程の分業化が進み、問屋を頂点とする問屋制家内工業といえる体制が確立されていった。
 ちなみに、昭和期にはアルミ鋳物による鍋の生産が始まり、第二次大戦中には地金の銅が不足したため、アルミニウムでの軍用飛行機部品が生産されるといった経緯から、戦後の富山県のアルミニウム工業発展につながった。
 戦後、銅器は輸出用として、またギフト需要の増加により生産のピークを迎えるが、バブル期の1990年に374億円という販売額を記録したのを最後に、2003年には半減し、現在も減少を続けている。
3.能作の企業革新
能作社長
能作社長
 1916年に鋳造による仏具製造業として始まった能作も、産地同様に盛衰の道をたどる。
現在の社長である能作克治は、4代目の長女と結婚して1984年に高岡の能作家に入った。能作家は代々女系家族であり、克治の3人の子供も女である。もともと美術志向であった克治は、郷里の福井県三国を出て芸術系の大学を卒業後、朝日新聞社の写真部にカメラマンとして入社した。そうした経歴とは無縁で、全く畑違いの鋳物屋の主となったのである。
 先代は職人気質であり、伝統的な鋳物作りにこだわっていた。銅器の鋳造工程は、問屋制の下で生地、着色、仕上げという分業で成り立っており、能作は鋳物を成形し、旋盤などで切削して形を作る生地という工程を分担している。正直言って、当時の鋳物の生地は美しい仕上がりとなっていなかった。品質改良に取り組もうにも、昔気質の職人たちに他県出身のよそ者が意見できる雰囲気ではなかった。
 しかし、富山県には昔からよそ者を「旅の人」と呼んで、教えてくれる気風があり、同業者に技術を習うことで自社の技術改良を進めていった。しかし、会社の売り上げは伸びるどころか減少の一途であった。柔道で鍛えた克治であったが、90年には腸から体内の2分の1の血液が下血してしまい、体重が110キロから80キロまで激減した。ストレスにより生死の境をさ迷うこととなった。今から10年前には存続の危機に立たされていた。
 当時、社会科見学の受け入れで能作の工場を見に来た子供に向かって、付き添ってきた母親から「いい。お前も勉強しないとあの工場の人たちのようになるのよ。」という言葉が発せられ、情けない気持ちと同時になにくそという奮起の念を抱いた。
 あるとき、高岡市デザイン・工芸センターの研究会に参加した。そこで、デザインコーディネーターの立川裕大氏が持ってきたイタリアのAESSI社製のステンレスボウルを見て、自社で作っているものと変わらないと思った。立川氏に旋盤をかけたままの真鍮の建水(茶道具)を見せたところ、東京での展示会に誘われ出展することとなった。その結果、ヘアライン仕上げの真鍮製品に関心が集まった。
 しかし、実際に売れるようになる、つまり市場に受け入れられるにはもう一つのきっかけが必要であった。
 ヨーロッパでは日常的に使用される卓上ベルは、日本では使われない。「これを風鈴にしましょう」というショップの販売員の一言から、ヒット商品である真鍮の風鈴が生まれた。節電が叫ばれた昨年の夏は、生産が間に合わないほどの売れ行きとなった。以降、消費者の声以上に売り手の意見を尊重するようにしている。
 澄んだ音色が生まれる鋳物製品は、鋳造工程で「す」と呼ばれる空洞などが生じない技術の高さが要求される。素人からスタートした克治社長本人も、金属溶解部門の1級技能士を取得するなどして技術力を高めたからこそ、次のステップである純度100%の錫を加工するレベルに達したのだ。

*PART2 に続く




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