コラム「伸顕が斬る!」
福田興次さんにたむける水俣レポート Part2
2011年10月 5日 水曜日

公益財団法人大田区産業振興協会

専務理事 山田 伸顯

3.環境復元事業
バラ園になった水銀埋立地
バラ園になった水銀埋立地
 水俣病をきっかけに、昭和45年(1970年)に新たに水質汚濁法が制定され、水銀等の有害物質について全国一律の排水規制が行われるようになった。昭和49年(1974年)1月、熊本県は水俣湾内に汚染魚を封じ込める仕切り網を設置し、平成2年(1990年)3月まで漁業の操業を禁止した。県は水俣市漁協に対し、総額33億1,500万円の漁業補償を行った。チッソからも昭和48年(1973年)に、漁業補償として水俣市漁協や不知火湾沿岸漁協等に総額約34億円の補償金が支払われ、そののち湾内で捕獲した魚介類の買い上げなど9億円の補償を行った。
 熊本県は昭和52年(1977年)10月から水俣湾公害防止事業を開始した。25ppm以上の水銀が含まれた堆積汚泥は、湾内に総量151万?、面積約209万?に及んだ。厚さが4mに達するところもあった。水銀値の高い湾奥部を鋼矢板で仕切り、そこに他の海底から浚渫した汚泥を埋め立て、シートとシラスで表面処理した後、山土で覆土し、水銀で汚染されたヘドロを封じ込めるものであった。平成2年(1990年)3月に完了、約13年の歳月と約485億円(チッソ負担305億円余、残りは国と県が折半)の費用を要した。
 この埋めたてによりできた新たな用地は現在エコパークとなっており、国立水俣病情報センター、熊本県環境センター、水俣市立水俣病資料館が設置され、平成19年(2007年)にはバラ園がオープンした。エコパークには400mに及ぶ親水護岸があり、そこに立つ水俣病慰霊の碑には「不知火の海に在るすべての御霊よ 二度とこの悲劇は繰り返しません 安らかにお眠りください」と刻まれている。護岸から見る海の色は、メチル水銀のヘドロの跡とは思われない透明感がある。しかし、埋立地は高濃度水銀を封じ込めた地盤である。鋼矢板が経年劣化に耐えられるのか、地震による地盤変化で再び有毒金属が流れ出ないか、これからも心配しつつ見守らなければならない。
 その他、汚染された丸島漁港や水銀を排出していた丸島・百間水路などの公害防止工事を施し、水俣の環境復元事業を完了した。こうしてようやく平成9年(1997年)7月になって、熊本県知事により水俣湾は安全な海であることが宣言された。
水俣資料館
水俣資料館
4.被害者補償と教訓
水俣病の語り部 濱元氏
水俣病の語り部 濱元氏
 次は、被害者の補償救済である。被害発生の当初は、因果関係を認めようとしないチッソから見舞金をして支給された程度であった。その後、昭和44年(1969年)12月に公布された「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」により、水俣市、葦北郡3町と出水市が公害指定地域となった。昭和49年(1974年)には「公害健康被害の補償等に関する法律」が施行され、同法に基づく被害者の認定が行われるようになった。現在でも未認定の患者は多く、熊本県の認定患者数は1776人(2007年3月)である。
 チッソに対する損害賠償を求めて、第1次訴訟昭和42年(1967年)に提起され、昭和48年(1973年)に原告勝訴が確定した。その後3次に及ぶ訴訟が提起され、さらに水俣から関西に移住した患者から関西水俣病訴訟が起こされ、2004年に最高裁判決が出るまで争われた。しかも今もなお、国から判決に沿った解決が示されていない。2007年になって新潟3次訴訟が提起された。

 このように50年の歳月を経て未解決の水俣病は、まさに戦後日本の公害問題の原点である。同時に水俣は新しい環境都市として蘇りつつある。
 水俣病の経験や教訓を語り伝える「語り部」の一人濱元二徳さんに、3年前水俣病資料館を訪ねたとき話を聞いた。漁師であった父親と母親を水俣病で亡くしている。濱元さん自身も水俣病に苦しみ、30年前から車いすの生活を余儀なくされている。昭和11年(1936年)生まれの濱元さんは、昭和30年(1955年)に発病し、昭和45年(1970年)に水俣病として認定された。50年に及ぶチッソや行政に対する交渉と裁判の過程や肉体的苦痛、それ以上に伝染病・奇病扱いによる差別からくる精神的苦痛、生活の苦労を語ってくれた。水俣病の発生を通じて、自然の大切さ、命の大切さを学ぶべきと訴えている。
 「水俣病は、自然を壊さず、自然によって生かされているという考えに立って暮らしていくこと、人や川や海などとの関わりや安全な食べ物について考え、家庭のごみや産業廃棄物の減量・リサイクルに取り組むこと、地球の問題から目を逸らさず向き合っていくことの大切さをも教えている。」(「水俣病10の知識」水俣市立水俣病資料館、水俣病歴史考証館制作・発行)
5.環境モデル都市づくりへ
環境クリーンセンター分別展示
環境クリーンセンター分別展示
 水俣市は、水俣病のような不幸を二度と繰り返してはならないという決意のもとに、平成4年(1992年)11月、市民の行動指針として「環境モデル都市づくり」を宣言し、まちづくりを推進してきた。その一つがごみの分別回収・リサイクル・減量化に対する取り組みである。
 見学した「水俣市環境クリーンセンター」の説明によると、現在水俣市では資源ごみの22分別を実施している。ガラス瓶は、「生きびん」(再利用できるリターナブルびん)、透明、茶色、水色、黒色、緑色などに分けられて回収し、スチール缶・アルミ缶の収集分類はもちろんのこと、なべ・釜類、電気コード類、乾電池や破砕埋立に回るものなど、可能な限り資源化しようというものである。これほど住民にとって大変な手間がかかる分別を行うきっかけとなったことは、回収した未分別の鉄資源をリサイクルするため破砕処理したとき、混入していたプロパンボンベを破砕し爆発事故を引き起こした事であった。こうした事故が連続して起こり、設備に大きな被害が生じたのだ。
 分別収集に協力を求めるため、半年間に300回の市民説明を行った。平成5年(1993年)8月から300か所の分別ステーションを設け、資源ごみを月1回収集してきている。その他、廃プラスチックは週1回、ペットボトルと紙類は2週間に1回、生ゴミは週2回というサイクルである。ペットボトルは卵のパック容器などになり、生ゴミは生分解性の袋で回収し、たい肥として農家に配られる。廃プラスチックは、荷台のパレットや雨どい、ベンチ、テントのくいなどにリサイクルされる。色つきガラスは、粉砕して道路の指示表示やカラー舗装に再利用される。
 「環境クリーンセンター」には、分別された資源を中間処理し保管する施設がある。有価物を最終的に資源化する業者に引き取ってもらう。ちなみに、アルミは1キログラム当たり155円の値がつき、古着は0.5円、新聞紙・チラシは3.5円、段ボールは12.5円、雑誌は13.5円、透明ガラスはトン当たり100円で売却する(前年実績)。
 こうして得た昨年度の収益金は約1,700万円になり、うち1,050万円を地域に還元した。26行政区の自治会長の口座に平均40万円振り込まれた勘定となる。分別収集には、リサイクル推進のボランティア330名が指導に当たっているが、開始当初は戸惑っていた住民も月1回の習慣になじみ、近所の人とのコミュニケーションも生まれるようになり、今では積極的に協力してくれるようになった。

*次回に続く
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