コラム「伸顕が斬る!」
福田興次さんにたむける水俣レポート Part1
2011年10月 3日 月曜日

公益財団法人大田区産業振興協会

専務理事 山田 伸顯

福田興次さんへの哀悼
右が福田さん、左は大西東大教授
右が福田さん、左は大西東大教授
 福田興次さんが9月13日亡くなった。65歳だった。私とは「地域産業おこしに燃える人」(注)の1期生同士である。穏やかなまなざしを絶やさない人だったが、奥に秘めた強い意志を感じ取れた。

 戦後の公害問題の発端となった水俣にあって、観光農園という新しいジャンルの事業を開始し、エコロジーの取り組みと合わせ、地域の活性化とイメージアップに尽力された方である。観光庁の観光カリスマにも選定された。

 ミカンと甘夏が実り、美しい不知火海を眺められる風景は、まるで地中海である。その場所は、もともと松林を開墾したものだった。気候的に甘夏の栽培にはぴったりという判断が的中し、見事な無農薬果実が栽培でき、絶品のマーマレード、ジャムやジュースといった農産加工品が製造されている。
1次・2次・3次産業の融合が提唱されるようになったが、福田農場ワイナリーはその先駆けと言える。農産物の栽培、それを利用しての加工・製品化、そしてネット販売による全国への商品展開だけではなく、観光を含めた地域おこしとしてのサービス提供。これからの内需型産業のモデルとなる事業である。
ともすれば暗いイメージで見られがちな水俣を、未来に向けた地域再生へと導いた福田興次さんへの哀悼の意を表して、3年前に訪れたときのレポートを掲げる。

なお、福田農場の歴史とものがたりは下記のURLで。
http://www.fukuda-farm.co.jp/page/farmhistory.htm

http://www.fukuda-farm.co.jp/page/farmstory.htm





(注)2003年7月に政府内閣官房は、各地で地域産業振興や活性化に取り組んでいる人を「地域産業おこしに燃える人」として33人を認定した。
湯の児から見る不知火海の夕日
湯の児から見る不知火海の夕日
福田農場から見た不知火海
福田農場から見た不知火海
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水俣にて - 地域と産業、環境を考える -

 
「燃える人in水俣」というシンポジウムが2008年5月10日に開催され、私は9日から11日までの日程で3年ぶりに水俣を訪ねた。
 環境問題に対して先進的に取り組んでいる当地の現状を取材したので、その報告を行う。




1.福田農場ワイナリー
スペイン村バレンシア館
スペイン村バレンシア館
 水俣は山紫水明の地である。市の北部に、「NPO法人健康と温泉フォーラム」が名湯百選に選定した湯の児温泉がある。そこの宿から見る不知火海(八代海)に沈む夕日は、たとえようのない美しさであり、明日への活力をもたらしてくれる。

 九州新幹線の新水俣駅から湯の児温泉に行く途中に、「湯の児スペイン村福田農場」がある。眼下に不知火海を望む見晴らしのよい高台に、甘夏とみかんの畑が広がり、スペイン風の施設が立ち並んでいる。バレンシア館とセビリア館はスペイン料理と多国籍料理が味わえるレストラン、スペイン館は農産加工・サングリアワイン工房となっている。今回のシンポジウムは、この農場を営む株式会社福田農場ワイナリーの福田社長が、会場の提供と水俣の見学の受け入れを用意してくれたことにより開催できた。福田さんも「地域産業おこしに燃える人」第1期の一人である。
 農場の一帯は元々松林で、福田さんの両親が「花が咲いて実がみのり、弁当をもって遊びに来てもらえるような場所を作ろう」という夢を抱き、道も水道も電気もない場所を開墾して作り上げたものである。当時高校2年生だった福田さんも両親を手伝った。
 熊本市内で最初のミカン狩り園をオープンしたのち、梨狩り、ぶどう狩りができる果樹園を開園し、観光農園から、ジュースやワインをつくる製造販売に踏み切った。常時人に来てもらえる施設としてレストランを開業した。生産高日本一の甘夏を加工して、全国に通じるものを作りたい。ジュースを作ってから、試行錯誤して「甘夏サングリア」を生み出すことができた。スペインのサングリアに欠かせないバレンシアオレンジの代わりに甘夏を使ったのである。甘夏のマーマレードは、これまでマーマレード嫌いだった私がこれからも取り寄せようと思うほどのおいしさで、自然の恵みの素晴らしさを実感できた。
 さらに水俣は、スペインの代表的料理であるパエリアの原料となるサフラン、玉ネギ、魚介類の熊本県有数の産地である。穏やかな不知火海を明るい地中海になぞらえた。1992年のバルセロナオリンピックに合わせ、スペイン村としてスタートした。水俣の再生を願ってのことである。

 ところで、環境をテーマにした今回のシンポジウムが水俣で開催されたのは大きな意味がある。人類の歴史上類例がないとさえいわれている、最大の公害を引き起こした水俣病は、今日に至るまで問題の最終解決に至っていない。新潟県阿賀野川流域で発生した公害も「新潟水俣病」または「第2水俣病」と呼ぶように、水銀による公害の代名詞となっており、風土病としての誤解を解くため病名変更運動が起こったにもかかわらず、地名がそのまま定着してしまっている。そこで、この問題から目を背けることなく、水俣を真に再生するこそが、地域における人と環境の持続的共存方向を見出す原点だと考えるからである。
2.水俣病
水銀排水を放流した百間排水口
水銀排水を放流した百間排水口
 この風光明媚な美しい水俣を襲ったのは、メチル水銀による汚染である。昭和31年(1956年)に初めてその被害が明確になった。
 水俣に立地した日本窒素肥料株式会社(チッソ)は、アセトアルデヒドと塩化ビニールを製造する過程で、触媒として水銀を使用していたが、反応によって有機水銀に変わったものをそのまま排水し、海に垂れ流していたのである。そのため、汚染されたプランクトンや海藻を食べた魚の体内に水銀が蓄積され、人がその魚を食するという食物連鎖が原因となった。
 メチル水銀化合物水銀は、人間の脳内に侵入し中枢神経に蓄積するため、神経細胞が障害を受けて神経症状と精神症状が引き起こされた。手足のしびれ、振るえ、脱力、耳鳴り、視野狭窄、動きがぎこちなくなるなど、さまざまな症状が現れる。また、母親の妊娠中に胎盤を通して胎児がメチル水銀中毒になり、脳性小児まひに似た症状を持って生まれる胎児性水俣病がある。
 当初は、奇病、伝染病ではないかとみなされ、発病した人に対して忌み嫌う風潮が生まれ、近所付き合いを断られ、水俣の住民の結婚や就職における差別につながった。水俣には従業員などチッソの関係者が多く住んでおり、会社を頼りにしていた。原因がチッソであるとはっきりしても、患者は裁判や補償で会社の存在を脅かすとして疎まれてきた。こうしてまちが二分された状況となった。
 チッソは昭和7年から水銀を含む汚水を垂れ流しており、水俣病の原因が特定されたにもかかわらず、アセトアルデヒドの生産を停止した昭和43年(1968年)まで排水を止めなかった。当時の状況を知る人は、チッソの工場を囲む堀の水が異臭を放ちドブとなっていたと言う。
 ちなみにチッソは、水俣の後背地の傾斜に富んだ地形を利用し、ダムによる発電を行う曾木電気株式会社として明治39年(1906年)に設立された。明治41年(1908年)日本窒素肥料株式会社に社名変更し、水俣工場にてカーバイドの製造を開始したことが発祥である。大正12年(1923年)に世界で初めてカザレー法による合成アンモニアの製造に成功し、昭和16年(1941年)には国内で初めて塩化ビニール樹脂の工業化に成功した。
 戦後は、水俣病に対する補償問題で企業存立の危機に立ちながら、今日、液晶をはじめとする機能材料や樹脂・シリコンなど化学品事業を手掛け、肥料のみならずハイテク繊維や化粧品など様々な加工品を供給する素材メーカーにシフトしてきている。

*次回に続く
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